残暑というには暑すぎた前日の熱気を引きずるかのように、空気は淀んでいた。
西暦二〇一九年九月十一日、午前十時。水曜日にも関わらず、家族連れや観光客の姿が目立つ東京都港区の芝公園を、二人の男子が談笑しながら歩いていた。
二人はおとなしめのカジュアルな服装で、悪目立ちしない優等生に見える大学生だった。 男子の一人が立ち止まり、天に楔を打ち込まんとするかのように聳える東京タワーを見上げた。「ここが、現場か……」
鋭い眼差しで東京タワーを見据えた男子が、ぼそりとつぶやいた。
「カイト? なんだよ急に立ち止まって」
もう一人の男子にカイトと呼ばれた男子は、ばつが悪そうに微苦笑を浮かべながら、
「いや……思ったより高いな、と思ってさ」
と後頭部を掻きながら答えた。
カイトの言葉に一応の納得を示しながら、もう一人もカイトにつられるように東京タワーを見上げた。「確かに。間近で見ると高いよな。それに、スカイツリーより艶があるよ。風格って言うのかな……やっぱりこの曲線にはスカイツリーにはない色気があるっていうかさ」
「レンは表現が色っぽいな」カイトが笑みを漏らすと、レンと呼ばれた男子は「そうか?」と片頰笑みながら、
「懐の深さって言ったほうがいいのかもな。数多の怪獣に壊されてきた東京の象徴だからなあ。特撮の世界じゃある種の記念碑的な建造物ってやつだ」
と東京タワーへの感想を続けた。
「レンって、特撮にも詳しかったのか?」
「詳しいってほどじゃないさ。一般常識の範疇だろ」 「どこの一般常識だよ、それ」カイトにツッコまれたレンは声を上げずに笑いながら、
「スカイツリーじゃなくて東京タワーを選ぶあたり、渋いよなカイトも」
と返した。
「わるいな。せっかくの東京なのに、なんか付き合わせちゃって」
カイトが軽い調子で詫びる。
百七十四センチと平均的な身長で体型もやや細身だが標準的。黒髪の短髪で瞳は暗褐色、まつげが長く鼻筋は通っているが特段に美形という訳でもないカイトは、大人しい印象を与える二十歳の男子だった。「いいさいいさ。来たかったんだろ、東京タワー」
レンが理解を示すように応じると、それにうなずいたカイトは、
「ああ、ちょっとした因縁があるんだ」
と冗談めかしながら答えた。
「因縁ってまた穏やかじゃないな。温厚が売りのカイトには似合わない単語だ」
レンが笑いながら感想を口にする。
カイトは再び東京タワーを見上げた。その眼差しは、いつになく鋭かった。(俺は、ここに来なきゃいけなかったんだ。四十四年前におじいさんが、そして十五年前には父さんが、失踪した現場である東京タワーに……)
カイトが胸中を口に出すことはなかった。
二人は、未だ夏の気配を孕む風の中に早咲きのキンモクセイの薫りを感じながら、東京タワーを目指して足を進めた。 レンはトップデッキと名付けられた展望台に着くと、思いのほかテンションが上がっていた。 高さ百五十メートルのメインデッキから高さ二百五十メートルのトップデッキに昇るエレベーターがガラス張りである段階で、レンは楽しむことに決めたようだった。「思ったより高いな。それに街が異様に広い。北海道じゃ拝めない景色だ」
レンが展望台からの景色に感嘆する。
「うん……そうだな」
カイトは東京という稀有な大都市を見下ろしながら、ぼそりと同意を口にした。
「どうだ? 見たい景色だったか?」
「ああ、おかげで見れたよ」 「そうか、それなら良かった」レンは微笑むと床の一部がガラス張りになっているスカイウォークウインドウに目をやった。
その刹那。 カイトが消えた。 何の異変も徴候もなく、唐突にカイトの姿は消え失せた。「あれがガラス張りの床か……なあ、カイトも一緒に……って、え? カイト? どこいった……?」
辺りを見回すレン。
カイトが立っていた場所にはカイトのスマートフォンが落ちていた。「……カイト?」
レンが拾い上げたカイトのスマートフォンの画面は、午前十時五十四分という時間だけを表示していた。
それは瞬きの一瞬だった。
その一瞬、カイトは巨大なドラゴンの影を見た気がした。 東京タワーの展望台にいたはずのカイトは、一瞬の後、天井が高くて広いにも関わらず薄暗い部屋にいた。「え……?」
カイトの思考は状況の変化に追いつかなかった。
足下が淡いオレンジ色に光っている。カイトが足下に視線を落とすと、床に直径五メートルほどの丸い魔法陣が描かれており、その魔法陣が淡く発光していた。カイトは魔法陣の中央に立っていた。 カイトは周囲に視線を移した。魔法陣の周りに燭台が乗った祭壇が四つ。二つの小さな窓。重厚な作りのドアが一つ。奇妙な部屋にカイト以外の人影はなかった。 カイトは、ただただ困惑した。(瞬間移動? いや、白昼夢? どこなんだよ、ここ……)
カイトが自分を落ち着かせようと深呼吸をしたときだった。複数の足音が近づいてくることにカイトは気付いた。心拍数が一気に上がるのをカイトは感じた。自分の鼓動がうるさかった。
複数の足音がドアの前で止まると、ドアがゆっくりと開いた。 入ってきたのは全身黒のモーニングコートを着た老人が一人と、詰襟で濃紺の軍服を着た青年が四人。 すぐに老人が口を開いた。「まず、落ち着いてくださいませ。我々は貴殿に害をなす者ではありません」
白髪で碧眼の老人は、カイトが聞いたことのない言語を発したが、カイトには日本語として理解できてしまった。カイトの困惑は奇妙な動揺に変わった。
「……ここは、どこですか? あなたは?」
カイトが発する言葉も、知らない言語に変換されていた。頭では日本語で処理しているのに、口から出る言葉は違う。カイトは動揺を隠せなかった。
「此処はミズガルズ王国の王都プログレでございます。そして、この部屋は王宮の中にある召喚室です。私はマジェスタと申します。枢密院の議長を務めております」
「……ミズ、ガ、ルズ、王国?」(聞いたことないぞ。そんな国あったか? しかも枢密院? 古風すぎるだろ……待て、それよりも気になる言葉を……召喚、室……召喚だと?)
「困惑なさっておいででしょう。順を追って説明いたします」
マジェスタと名乗った老人の口調が穏やかであるのは、カイトにとって唯一の救いだった。
カイトは首肯してみせるしかなかった。「……お願いします」
「貴殿は我々によって異なる世界から、この世界、テルスに召喚されたのです。貴殿で三人目となります。一人目は女王陛下の王配たるケンゾー王配殿下、二人目はビスタ公ダイキ閣下、そして貴殿です」 「ちょっと、待ってください」(異世界に召喚された? 俺が異世界転移するラノベの主人公だとでも言うのか? それも三人目? 王配って女王の夫だろ……しかも、賢三と大樹って……おじいさんと父さんの名前と同じ……)
偶然とは思えない肉親と一致する名前を、異世界で聞くことになったカイトの動揺は強まるばかりだった。
男の脳裏に浮かんだのは息子の顔だった。 この異世界に来てから産まれた娘の顔ではなく、元の世界で成長しているであろう五歳までの姿しか知らない息子の顔。 男は自嘲した。 父親らしいことを何もしてこなかった自分がこんな時にだけ息子を思うなど虫がよすぎる、と。 小高い丘の上に張られた天幕の中に男はいた。 ミズガルズ王国の国旗が掲げられた天幕は、本陣としてその戦場にあった。「ダイキ卿……残念ながら彼我の戦力差は明らかです。戦況は刻刻と悪化しております。ここは撤退を……」 ダイキと呼ばれた男は、自分の身を常に案じてくれる青年の切迫した声で我に返った。 人払いが済んださほど広くもない天幕の中には、ダイキと青年しかいなかった。 長身の青年はダイキと揃いの純白の軍服を身に纏っており、その翠玉のように輝く瞳は憂いを帯びていた。 とうに中年となってしまった自分が失って久しい、若さのきらめきを感じさせる青年に憂いは似合わないとダイキは思った。 まさに敵の手が首にかかろうとしている逼迫した戦場の気配を感じながら、ダイキは口を開いた。「フォレスター卿とインプレッサ卿は?」「遺憾ながら……」「そうか……あの奇跡の親子が、こんなところで……アルテッツァ卿。俺はやっぱりお飾りの筆頭だったみたいだ……」 ダイキが吐露した弱気に、アルテッツァと呼ばれた青年の整った眉がぴくりと反応する。「ダイキ卿。卿は聖魔道士にして、我らトワゾンドール魔道士団の筆頭。卿が救わねばならぬ命がある内に、そのような弱音を吐くべきではありません……!」 アルテッツァの叱責を、大希は素直に受け取った。「いつでも温厚な卿を怒らせちまった……すまない。そうだな……俺には、まだやるべきことがある……」 ダイキが簡素な椅子から立ち上がった、その時だった。 本陣たる天幕の周りにはべていた側近の兵士たちが、ほぼ同時にどさりと倒れる音がダイキの耳に届いた。 不穏に反応したダイキの皮膚が粟立った瞬間、何者かが天幕に侵入した。 ダイキの目で捉えられる速さではなかった。 天幕の中に黒い影が侵入した、ダイキが認識できたのはそれだけだった。「見つけたぞ」 場違いに若い侵入者の声。 声の主は未だ少年の無邪気すら残香する若い男だった。 風属性魔法であるクッレレ・ウェンティーで加速している金髪碧眼の男は
残暑というには暑すぎた前日の熱気を引きずるかのように、空気は淀んでいた。 西暦二〇一九年九月十一日、午前十時。 水曜日にも関わらず、家族連れや観光客の姿が目立つ東京都港区の芝公園を、二人の男子が談笑しながら歩いていた。 二人はおとなしめのカジュアルな服装で、悪目立ちしない優等生に見える大学生だった。 男子の一人が立ち止まり、天に楔を打ち込まんとするかのように聳える東京タワーを見上げた。「ここが、現場か……」 鋭い眼差しで東京タワーを見据えた男子が、ぼそりとつぶやいた。「カイト? なんだよ急に立ち止まって」 もう一人の男子にカイトと呼ばれた男子は、ばつが悪そうに微苦笑を浮かべながら、「いや……思ったより高いな、と思ってさ」 と後頭部を掻きながら答えた。 カイトの言葉に一応の納得を示しながら、もう一人もカイトにつられるように東京タワーを見上げた。「確かに。間近で見ると高いよな。それに、スカイツリーより艶があるよ。風格って言うのかな……やっぱりこの曲線にはスカイツリーにはない色気があるっていうかさ」「レンは表現が色っぽいな」 カイトが笑みを漏らすと、レンと呼ばれた男子は「そうか?」と片頰笑みながら、「懐の深さって言ったほうがいいのかもな。数多の怪獣に壊されてきた東京の象徴だからなあ。特撮の世界じゃある種の記念碑的な建造物ってやつだ」 と東京タワーへの感想を続けた。「レンって、特撮にも詳しかったのか?」「詳しいってほどじゃないさ。一般常識の範疇だろ」「どこの一般常識だよ、それ」 カイトにツッコまれたレンは声を上げずに笑いながら、「スカイツリーじゃなくて東京タワーを選ぶあたり、渋いよなカイトも」 と返した。「わるいな。せっかくの東京なのに、なんか付き合わせちゃって」 カイトが軽い調子で詫びる。 百七十四センチと平均的な身長で体型もやや細身だが標準的。黒髪の短髪で瞳は暗褐色、まつげが長く鼻筋は通っているが特段に美形という訳でもないカイトは、大人しい印象を与える二十歳の男子だった。「いいさいいさ。来たかったんだろ、東京タワー」 レンが理解を示すように応じると、それにうなずいたカイトは、「ああ、ちょっとした因縁があるんだ」 と冗談めかしながら答えた。「因縁ってまた穏やかじゃないな。温厚が売りのカイトには似合わない単語だ
男の脳裏に浮かんだのは息子の顔だった。 この異世界に来てから産まれた娘の顔ではなく、元の世界で成長しているであろう五歳までの姿しか知らない息子の顔。 男は自嘲した。 父親らしいことを何もしてこなかった自分がこんな時にだけ息子を思うなど虫がよすぎる、と。 小高い丘の上に張られた天幕の中に男はいた。 ミズガルズ王国の国旗が掲げられた天幕は、本陣としてその戦場にあった。「ダイキ卿……残念ながら彼我の戦力差は明らかです。戦況は刻刻と悪化しております。ここは撤退を……」 ダイキと呼ばれた男は、自分の身を常に案じてくれる青年の切迫した声で我に返った。 人払いが済んださほど広くもない天幕の中には、ダイキと青年しかいなかった。 長身の青年はダイキと揃いの純白の軍服を身に纏っており、その翠玉のように輝く瞳は憂いを帯びていた。 とうに中年となってしまった自分が失って久しい、若さのきらめきを感じさせる青年に憂いは似合わないとダイキは思った。 まさに敵の手が首にかかろうとしている逼迫した戦場の気配を感じながら、ダイキは口を開いた。「フォレスター卿とインプレッサ卿は?」「遺憾ながら……」「そうか……あの奇跡の親子が、こんなところで……アルテッツァ卿。俺はやっぱりお飾りの筆頭だったみたいだ……」 ダイキが吐露した弱気に、アルテッツァと呼ばれた青年の整った眉がぴくりと反応する。「ダイキ卿。卿は聖魔道士にして、我らトワゾンドール魔道士団の筆頭。卿が救わねばならぬ命がある内に、そのような弱音を吐くべきではありません……!」 アルテッツァの叱責を、大希は素直に受け取った。「いつでも温厚な卿を怒らせちまった……すまない。そうだな……俺には、まだやるべきことがある……」 ダイキが簡素な椅子から立ち上がった、その時だった。 本陣たる天幕の周りにはべていた側近の兵士たちが、ほぼ同時にどさりと倒れる音がダイキの耳に届いた。 不穏に反応したダイキの皮膚が粟立った瞬間、何者かが天幕に侵入した。 ダイキの目で捉えられる速さではなかった。 天幕の中に黒い影が侵入した、ダイキが認識できたのはそれだけだった。「見つけたぞ」 場違いに若い侵入者の声。 声の主は未だ少年の無邪気すら残香する若い男だった。 風属性魔法であるクッレレ・ウェンティーで加速している金髪碧眼の男は